12章 冬の気配5 -大切なもの-

「大切なものは、何があっても決して手放してはいけないわ」
エドはメアリーの言葉に、はっと我に返って顔を上げた。メアリーは庭のずっと先を眺めたまま、呟くように、ぽつりと
「……ルイーズにも同じ事を言ったわ」と言った。
「ルイーズ?」
エドが確認するように聞くと、メアリーはゆっくりと彼の方をへ視線を戻した。
「……ええ、そう。あなたもご存知でしょう?……あの子に家を出る決心をさせたのは、わたくしかも知れないわ」
メアリーはティーカップの中に視線を落としながら言った。
「私は、あまりよく知りませんが……。外国の方と家を出たと……」
「家を出てアメリカへ行って……。あちらでどんな暮らしをしていたのか……。何年か経って、あの子はひっそりとイギリスに戻ってきたわ。娘と2人で」
「……娘?」
「ええ、ルイーズには娘がいたのよ」
「……それで、相手の方は?」
メアリーは困ったような笑顔をすると
「相手の方にはね、日本に妻子がいらっしゃったの」と言った。
「そんな……」エドは絶句した。
「ルイーズは、それを承知だったのよ」
「承知していたって、けれどそんなこと……」
「相手の方は日本の名家出身で、わたくしたちのように家のための結婚をしていたわ。彼が日本人というだけなら、きっと夫も娘を絶縁などしなかったでしょう。けれど、婚約者を捨てて妻子のある外国人とだなんて、夫には理解できなかったのよ」
「……あなたは、理解なさったのですか?」
「もちろん、理解できなかったわ。けれど、ルイーズは彼を愛していたわ。だから、どうしようもなかったの」
「しかし……、結果的に彼女は……、捨てられた、のでは?」
エドが言いにくそうに言った。
「いいえ。そうでもなかったわ。年に何度も彼がこちらを訪ねていたようだったし、相手の方は経済的にも十分ルイーズを支えていたわ」
「……それで、彼女は幸せだったのですか?」
やはり遠慮がちにエドが聞いた。
「ええ、ルイーズは、それでも幸せだったのよ」
メアリーはそう言いきると、上流階級の夫人らしく穏やかに微笑んだ。
「夫の目もあったし、娘たちに会うこともできなくて……。だからいつも、こっそりと様子を見に行ったものよ。……そう、最後にルイーズを見たのはリッチモンドパーク近くだったかしら。娘と2人で楽しそうに歩いていたわ。エドワード、確かあなたもRBSの生徒だったわね?」
「ええ、中等部までですけど……」
「孫娘もRBSの生徒だったのよ。ちょうどあなたが辞める1年前に入学したのよ。ローレンという娘をご存じない?」
「……申し訳ありません。私はあまり……。クラスも学年も違うとなかなか……」
エドはメアリーの言葉に、以前、ジェイがルイーズの消息を尋ねてきた事を思い出した。確か、ジェイの知り合いだと言う人も『ルイーズに娘がいた』と言っていたはずだ。「……今、その娘さんは?」
メアリーはエドの問いに、彼の目を見たまま少し沈黙すると、寂しそうに目を伏せ
「さあ……、分からないのよ。RBSを卒業する年にルイーズが亡くなって、それからどこでどうしているのかは。わたくしが、ルイーズが亡くなった事を知ったのは、だいぶ経ってからで、孫娘の消息を確認するにも、どうしよもなかったの」と言った。
「RBSには?」
「もちろん、聞いたわ。けれど、卒業後どこのバレエ団にも入団しなかったって」
「……どこに住んでいたかは、分からなかったんですか?そこには……?」
「もちろん知っていたわ。知っていたけれど、わたくしがそこを訪ねた時には、すべて引き払われていたわ」
「誰かを頼ったのでは……?」
「わたくしは、あの子達の交友関係を殆ど知らなかったのよ。でも、……誰か頼れる人がいたのだと思いたいわ」
そして、メアリーは視線を窓の外に移すと、遠くを見るようにして言った。
「……ルイーズに似て、とても美しい娘だった。何度かあの子が踊る舞台を見たけれど、本当に優雅で美しくて……。わたくしにとっては天使のようだった」
メアリーが思わず目を潤ませた。
「どうかあの子が、どこかで幸せに暮らしていてくれたらと……」
そう言ってメアリーは、ハンカチを取り出すと目頭をおさえた。
「エドワード、大切なものは何を犠牲にしても守り抜きなさい。わたくしは夫の目を気にするあまり、あの子達を守ってやれなかった。……わたくしのように、後悔しながら人生を生きてはダメよ」
エドは、メアリーにかける言葉が見つからず、ただ「はい」と答えるしかなかった。