12章 冬の気配1 -過去の影-

12章 冬の気配

「早いわね、あなたが日本に来てもうすぐ3年近く経つなんて」
ジェイがしみじみと言った。

日曜の午後、レイは、ジェイと彼のアトリエの一角にいた。ロールスクリーンを開けた大きな窓からは秋の光が一杯に降り注いでいる。ジェイはモダンなデザインのコーヒーポットをテーブルに置くと、カップにコーヒーを注いだ。

「で、エドは?いつ戻るんだったっけ」
「明後日には」
「そう。……あなたも休暇を取って行けば良かったのに。もう長い事戻っていないでしょう?ロンドンには」
ジェイがコーヒーカップをレイの前に置きながら言った。
「そうね……。でも、彼の前で英国のパスポートを出すなんて、とても出来ないわ」

「……レイ、あなたまだエドに話していないのね」
レイの向かいに置いたチェアに腰を下ろしながらジェイが聞いた。

「ええ……」
そう答えると、レイは目を伏せた。

「もう2年もつきあっているのに、なぜ?黙っておけばいいって言った私が言うのもアレだけど……。でも……」

レイは黙ったまま、コーヒーカップを手に取った。

「わかっているわ」
「彼は、あなたを未だに日本国籍だと思っているわよ」
「そうね」
「そうね、って……。もう、いつまでも黙っておくわけにはいかないでしょう?イギリス国籍はともかく、少なくとも国籍はアメリカだってことくらいは話しておいてもいいんじゃない?」
「全部話せないなら、中途半端に話さない方がいいわ」
レイはそう言うと、窓の外に視線を移した。ジェイは心配そうな表情で彼女を見ると
「ずっと黙ってはいられないでしょう?この先、彼と一緒にいるなら」と聞いた。

レイは、窓の外から、ジェイの顔へ視線を移したあと、手にしているコーヒーカップに視線を落としてから寂しそうに言った。
「……いつまでも、彼のそばにいられると思ってはいないわ」
レイの言葉に、ジェイは少し驚いた表情をすると
「……どうして?何故そう思うの?」と聞いた。

「どうして、ですって?彼はオークリッジ家の人間よ」

レイは目を見開くようにして言うと、コーヒーカップをテーブルに置いた。そしてテーブルに置いたカップに視線を落とすと
「……最初から分かっていた事だわ。いつかは離れなければならないって」と言った。
「まさかレイ、最初からそのつもりで……。だから、エドに何も話さないって言うの?」
レイは、ジェイの驚いた表情の上に、ゆっくりと視線を戻すと
「どんなつもりでも、話せないわ……」と言った。
「話せないなんて……、話したところで彼はあなたから離れる様な人じゃないわよ」
「それなら、余計に話せないわ」

「……じゃあ、彼が結婚しようって言ったらどうするつもりなのよ?」

「結婚だなんて……。ダメよ、私となんて……」
「ダメだなんて、どうしてダメなのよ」
ジェイが呆れたように言うと、レイは落ち着いた様子で
「彼には、彼にふさわしい人がいるわ。……それに、オークリッジ家が私を認めるはずがないわ。どこの誰とも知れない私をね」と言った。
「じゃあ何?あなたは、もし彼にプロポーズされても断るつもりなの?」

「……だから、それ以前の問題よ」

「それ以前もなにも……、あなたとエドの問題でしょう?」
少し苛立ったようにジェイが言う。
「彼はオークリッジ家の長男よ。最終的には、彼はオークリッジ家が認めた人と結婚する事になるわ。それなりの家柄の人と」
「……あなただってオークリッジ家にとっては申し分のない出身じゃないの!」
レイは、ジェイの言葉に困った様な顔をすると

「私は、バークスフォード家にとって存在しない人間よ」と言った。

「どんなに辛くても、いつか彼から離れなければならない日がくるわ……。きっと」レイは、寂しそうな目をすると、再び窓の外に視線を移した。窓の外には、色づき始めた木々が見える。それは青い空とのコントラストでとても美しく見えた。

「……東京の空が、こんなに美しく見える日があるのね」

遠くを見つめたままレイが独り言のように呟いた。

ジェイは、レイが何を考えているのか心配で仕方がなかった。彼女は、何ひとつ変わっていないのだと思った。未だに、自ら自分の出生に縛られるようにして生きているのだ、と。

スポンサーリンク