16章 夢のあと5 -冷たい雨-

16章 夢のあと

chapter16

雨が強くなってきたのか、雨水がぽたぽたと流れる音と、時折通る車が雨水を跳ね上げる音が、静かな店内に聞こえてくる。彼女を初めて抱きしめたのも、こんな雨の夜だった、とエドは思った。

しばらくすると、ジェイが新しく入れたコーヒー手にしてテーブルに戻ってきた。

「ごめんなさい、私、言いすぎたわね……。あなたの気持ちも考えずに……」

エドは、下を向いたまま、じっと考え込むようにしていたが、ゆっくりと顔を上げると

「……僕は、このまま彼女を失うなんて耐えられない」と言った。

ジェイはじっとエドを見たあと、仕方なさそうな顔をすると
「しょうがないわねぇ」と言った。
「まず、あなたは本当の彼女を知るべきだわ。あの子が何者なのかをね」
「何者かなんて……。彼女は彼女以外の何者でもないよ」

エドがそう言うと、ジェイは「そうね」と小さく頷いた。

「……ねえエド、いつだったか、ルイーズの事を聞いた事があったわよね?」
「ああ……、バークスフォード家の……」
ジェイはコーヒーをひと口飲むと、少し考えるようにしてから、カップをテーブルに置いた。

「ルイーズはね、私の母の古い友人だったの」

その言葉に、エドは驚いてジェイを見た。

「私の母はイギリス人でね。通っていたフラワーデザインのクラスでルイーズと知り合ったのよ。しばらくして、私の母はアメリカ人と結婚してアメリカに移ったわ。それから、何年かするとルイーズが日本人と駆け落ち同然でアメリカに来たの。私は7歳だったけど、あのときの母の驚いた顔を今でも覚えているわ。あのお嬢様のルイーズがって!」
ジェイは懐かしそうに、クスリと笑った。
「アメリカに来た次の年にルイーズは女の子を産んだわ。……それが、レイよ」

ジェイがそう言うと、エドは目を見開いた。
「まさか……」
「信じられない話かもしれないけど、事実よ。レイの本当の名前はローレン・メアリー・バークスフォード。……もっとも、その本名を名乗る事なんて滅多にないけど。あの子はアメリカ生まれだから、アメリカ国籍も持っているけど、イギリス国籍を持つれっきとしたイギリス人よ。瀧澤レイって言うのは、彼女が日本国籍を持っていた頃の名前ね。
……レイの両親の関係はちょっと複雑でね、父親は代々続く名家出身で、ルイーズと知り合った頃には、妻子がいたわ。家同士が決めた相手と結婚をしていたの。まあ、彼らの社会では妾を持つのなんて別に珍しい事じゃなかったらしいから、彼の奥さんも、ルイーズの存在を黙認してね……。それどころかルイーズ親子に対して不自由のない生活が出来るようにしてくれたわ。ただ、レイを認知はしても、レイの相続権を放棄することと、瀧澤の家とは一切関わらないことを条件に、だけど。……レイはね、自分はバークスフォード家からも瀧澤の家からも受け入れられない、存在しない人間だって言っていたわ。だからあの子は自分の本名や出生を隠し続けたのよ。特にオークリッジ家の出身であるあなたにはね」

ジェイは、ここまで話すと席を立ち、棚からバーボンのボトルを取り出した。グラスに氷を入れ、琥珀色の液体を注ぐと、エドの前に置き、ジェイは再び話し始めた。

「レイがイギリスに戻ったのは、父親が日本に帰国しなければならなくなった時だから……、6歳になるかならないかの頃ね。ルイーズはイギリスに戻るとフラワーデザインの仕事に就いたわ。レイは、4歳の頃に習い始めたバレエをずっと続けていて、12歳の時にあなたと同じRBSに入学したの。とても優秀でね、将来有望だったのよ、あの子。でも、卒業を目前にした18歳の時にルイーズが亡くなって……。バレエ学校は卒業したけど、入団が決まっていたロイヤルには入団せずに、私たちが住んでいたアメリカへ来る事になったの。本人も、しばらくはとても踊れるような状態じゃなかったし、母がレイを心配してね。家族を亡くしたレイを1人にはしておけないって。……それから、半年たってようやくオーディションを受けてABTに入団したわ」

「……僕は、結局、彼女の何も知らなかったのか」
エドは、寂しそうにとつぶやいた。

「誤解しないで。あの子は、話さなかったんじゃなくて、話せなかったの。話そうとしたのよ。でも、ちょうどその頃クリスティの事がでてきたでしょ?自分の事を話せば、話がもっとややこしくなるって。あの子、随分悩んだのよ。叔父様のこともあるし、自分はあなたには相応しくないって」

「叔父の事はもう……。今は幸せに暮らしているし、誰もルイーズの名前を口にしないよ」
「誰も口にしないのは、禁句だからじゃないの?」
「それは確かに、事が起こった数年はバークスフォード家とは微妙な関係だったし、ルイーズの話題は禁句だったよ。でも、今は良好な関係だし、ルイーズの名前を口にしないのは、むしろ夫人の気持ちを気遣って、と言った方がいい」
エドは、そう言ってバーボンをひと口飲むと
「バークスフォード夫人は、孫娘の存在を知っていたよ」と言った。

「……知っていた?知っていたって、それはどういうことなの?」
ジェイが目を見開きながら聞いた。
「この前のロンドン出張のとき、偶然会って。その時に聞いたんだ。ルイーズの話を……。夫人は今だって孫娘に会いたがっている」
「じゃあレイは……、レイはバークスフォード家にとって存在しない人間ではないと言うこと?」
「バークスフォード家の人間なら誰でも知っていることだと言っていたよ。でも、身内しか知らない話だからと口止めされた」
「でも……、どうして、そんな話をあなたにしたのかしら?」
ジェイが不思議そうに聞くとエドは
「さあ……。夫人は“変わり者のあなた”になら話してもいいと思ったからだ、って言っていたけど」と苦笑いした。そして、考えるようにしながら
「……多分、僕が一方的に言い渡された結婚話を拒否して、“日本人の恋人”と結婚したがっていることを知っていたから、それとルイーズを重ねてみていたんじゃないかと思う」と言った。

「……あの子はもっと早く、自分の全てをあなたに話すべきだったのね」

エドは力なく、呟くように「そうだね」と言った。それきり、2人は黙りこんだ。

しばらくすると、ジェイが思い出しように言った。

「あなたには内緒にしておいてって言われたんだけど……。あの子、昨日、アメリカに発つとき、あなたのマフラーをしていたわ。あなたが傍にいるような気がするからって。……本当は離れたくなんかなかったのよ」

そう言われて、エドは身を切られるようだった。どんな思いで彼女は飛行機に乗ったのだろう、と。

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