10章 Gisell III -静寂-

タクシーを拾い、行き先を告げると、パトリックは再びレイの携帯に電話をした。が、一向に彼女が出る気配はない。レイのアパートまでの十数分が、2人には恐ろしいくらい長く感じられた。
ようやく部屋の前に到着したパトリックが、居ても立ってもいられない様子で何度もブザーを鳴らした。静まり返ったままのドアの前で、彼は「ローラ、頼む、開けてくれ」と小さく呟いた。
「買い物に出ているとか……」アンが自分に言い聞かせるように言う。
「こんな時間にローラが出かけるはずないよ。おい、ローラ!」
そう言ってパトリックが痺れを切らしたようにドアをドンドンと叩いた。
「勘弁してくれよ、ローラ」
パトリックは、再びレイの携帯に電話をした。すると、ドアの向こうから呼び出し音が鳴っているのが微かに聞こえてくる。しかし、それに出る様子はない。
ホテルの部屋から、電話をかけ続けて、もう30分以上が経つ。
「……アン、管理人を呼んでこい。1階に住んでる。緊急事態だって、ここを開けさせるんだ」
パトリックはそう言うと、再び部屋のドアを叩きながら
「ローラ、いるなら開けろ!ローラ!」と叫んだ。
やがて、管理人がやって来て鍵を開けると、パトリックが慌ただしく部屋に入った。小さな、ストゥディオタイプの部屋に、レイの姿はない。
ベッドの上には、レイの羽織っていたジャケットとバッグが無造作に置かれおり、小さなテーブルには、空になったワインのボトルとグラスがある。
「ローラ、いないのか?ローラ!」
パトリックが床に転がっている、数個のプラスティックケースを踏むとパキリと軽い音がした。
「何だ?」
怪訝な顔をしながらケースを拾い上げると、そこに貼られているラベルを見た。
「睡眠薬?……こんなに?」
空のケースがいくつも落ちていることにパトリックが表情を強張らせた時、微かな水音が聞こえた。パトリックが、恐怖にも似た嫌な予感を抱えながら
「ローラ、いるのか?開けるぞ」と言いながらバスルームを開けた。
次の瞬間、彼の表情が凍り付いた。一瞬の沈黙の後、パトリックが叫んだ。
「ローラ!」
バスルームには意識をなくしたレイが倒れていた。傍らには小さなナイフが落ちており、まるで思いついたように切られた手首の上には、シャワーが雨のように降っていた。
パトリックの後ろで、顔色を変えたアンが管理人に向かって叫んだ。
「911 を、早く救急車を呼んで!早く!」
「ローラ!目を覚ますんだ!ローラ!」 パトリックの声が、悲鳴の様に響いた。