8章 Patlic -ふたりの男-

2人はスタジオを出て少し歩くと、こぢんまりとしたバーへ入った。パトリックはビールを2つオーダーし、奥のテーブル席につくと、エドを冷ややかに一瞥した。
「エド、どういうつもりだ?ローラはお前に婚約者がいると言っていたが」
「婚約者など……」
エドが言いよどむと、パトリックは少し強い口調で
「彼女の誤解だと言うのか?」と言った。
「……確かに、僕には家が決めた相手と婚約させられそうになった。けれど、僕にその意志はないし、はっきりと断った。」
パトリックは、エドの顔を凝視するようにじっと見た。エドは黙ったまま、目の前に置かれたビールグラスの中身が細かい泡をぷくぷくと吹き出しているのを見つめていた。
「彼女に会って、お前はどうするつもりなんだ。どうしたいんだ?」
問いただすように聞かれて、エドは静かに
「……僕には、彼女のいない未来など考えられない」と答えた。
「ローラの気持ちは?彼女はお前を忘れるために辛い思いをしているんだぞ」
パトリックはそう言うと、返す言葉か見つからず黙っているエドをしばらく見つめた後、ビールをぐっと飲み、グラスを置いた。
「……彼女は、お前を愛しているよ。未だにね」
呆れるようにパトリックが言った。そして、ため息混じりに
「一体、どうなってるんだ、お前らは。俺には理解できんよ」と言うと
「ローラが、ウチの団の公演に客演してるのは、もう知っているよな?」と聞いた。
「ああ、初日に知ったよ」
パトリックは少し考えるようにした後、店のカウンターの方へ視線を移しながら
「……彼女とジゼルのリハを始めた頃、彼女は踊れなかったんだ。技術的な問題じゃなく、気持ちの問題で。……ジゼルのストーリーを知っているか?」と聞いた。
「ジゼルのストーリー?」
エドが質問の内容を繰り返すと、パトリックはエドの顔の上へ視線を戻しながら
「知っているよな、もちろん。……貴族で婚約者がいた、なんてまるでお前の事みたいだ」と言うと、エドの目をまっすぐに見た。
「……ローラは、恋人に裏切られたジゼルに自分を重ねてしまっていたんだよ。ジゼルの悲しみと自分の中の気持ちとが重なって、どうしても踊れなくてね……。それでも彼女は踊り続けたよ」
「僕が、彼女を深く傷つけてしまったことは分かっている。でも……」
エドがこみ上げてくる感情を抑えるようにして言うと、パトリックは
「お前を責める気は無いさ。俺から見れば、どっちもどっちだ」と仕方なさそうに笑った。
「……エド、明日の夜は?」
「えっ?」
「最終日だ。彼女が踊る。観に来るといい」
そう言ってパトリックはポケットからチケットを取り出すと、エドに差し出した。
「観た事ないだろう?彼女がダンサーとして舞台で踊るのを。君は観ておくべきだよ」
「……彼女が踊るのはあの日だけだったと聞いていたけど」
「最終日に踊るプリマが体調を崩してね。チェンジしたってわけさ」
エドは、パトリックからチケットを受け取ると
「ありがとう」と言ってチケットを上着の内ポケットにしまった。
そして、エドがすこし躊躇らいながら
「パトリック、君はレイと……」と聞くと、パトリックはきょとんとして
「俺と、ローラ?」と聞き返した。
「……君は、レイの事を、……その、どう思っているのかって」
「は?」
パトリックはピンとこない表情をすると、少し間を置いて、ぷっと吹き出した。
(ジェイは、結局エドに俺が既婚者だと言っていなかったのか!)
おかしそうに笑うパトリックを、エドはいぶかしげな表情で見ている。
「エド、……何も知らないんだな。これでも俺は妻帯者だよ。東京でお前と会った頃から」
そう言ってパトリックはグラスに半分ほど残っていたビールを一気に飲んだ。そして、意表をつかれたような顔で自分を見ているエドに
「エド、電話番号を聞いてもいいか?」と聞いた。
「あっ、……ああ。……もちろん」
ハッとしたようにしながら答えると、エドはポケットから名刺ケースを出した。そして、その中から一枚取り出して裏返し、携帯の番号を書くと
「直通だからオフィスに電話してもらっても構わないよ。プライベートの番号は裏に」と言ってパトリックに渡した。
それはニューヨークの住所が記された、会社の名刺だった。それを見たパトリックは少し驚いて
「出張じゃなかったのか……。ニューヨークで仕事を?」と聞いた。
「まだこっちに来て半年くらいだけどね」
「ここに彼女がいると知って来たのか?」
「いや……。たまたま誘われた会社がニューヨークだっただけだ。けれど……、ただ何となく、ここに住んでいれば彼女に会える気がしたのは確かだ」
「……愛ゆえ、かね」
エドの名刺をポケットにしまいながら、呟くように言ったあと、パトリックはふと思いついたように
「……俺のアルブレヒトは、遊び人でね。ウィリになったジゼルに助けられて初めて愛を知るって解釈だけど、明日はお前を踊ってやるよ」と言った。
エドがきょとんとした表情で彼を見ていると、パトリックは 「また明日、連絡するよ」と言って店を出て行った。