4章 初夏 1 -揺れる想い-

春も終わりを告げ、通りの木々は淡い緑で彩られていた。そろそろ梅雨の季節が来る、と千夏が憂鬱そうに言っていたが、とてもそんな風には思えない気持ちのいい日だった。
レイは、ランチを買いに出かけたものの、心地よい空気の誘惑に負けて、カフェのテラス席に座っていた。カフェ・オ・レとアボカドチキンサンドをオーダーし、ぼんやりと通りの緑を眺めていたが、やがて店内に視線を移した。楽しそうに話しながらランチをとっているOLとおぼしき2人組みや、コーヒーを片手に経済誌を読んでいる男性。
やがて、レイの視線はカフェの奥でピタリと止まった。見覚えのある横顔がそこにはあった。書類に目を通しながらコーヒーを飲んでいるその人は、嶋田だった。思わず、レイの心臓が、ドキリと音を立てた。
ちょうどその時、オーダーしたサンドイッチとカフェ・オ・レが運ばれてきた。
レイは、カフェ・オ・レの入ったカップを持ち、一口飲んだ。わずかにカップを持つ手が震えている。
(……ちょっと、何?私どうしちゃったの?)
そう思いながら、再び嶋田が座っている店の奥に視線をやった瞬間、レイの心臓は大きく音を立てた。ズキリとした痛みを伴って。彼女の視線の先には、嶋田の向かいに親しげな笑顔を浮かべて腰を下ろす、総務部の立川安紗美の姿があった。
レイは、思わず顔を背けた。
(どうして彼女が彼と?)
心の奥から、ふつふつと湧いてでてくる、なんとも居心地の悪い感情。
(ああ、嫌だ……)
そんな風に思った後、レイは、自分の中のその居心地の悪い感情の正体を知った。
次の瞬間、レイは自分を嘲るようにクスリと笑った。ああ、私は彼が好きだったのだ、そして、この気持ちは立川安紗美に対する嫉妬なのだ、と。それを悟った瞬間、自分がとても滑稽に思えた。一度、挨拶を交わしただけの相手を好きになるなんて、馬鹿げている。彼の事を何も知らないし、第一、自分には何の可能性もないのに、と。
レイは手を上げてウェイターを呼ぶと「ごめんなさい、サンドイッチを包んでもらえるかしら。急用が出来てしまって」と言った。
ウェイターは、愛想よく「ええ、では少々お待ちください」と言うと、サンドイッチの載ったバスケットを持って店の奥へ戻り、間もなくテイクアウト用の紙袋に入ったサンドイッチを持ってきた。レイはそれを受取り、足早にカフェを出た。
光にあふれた通りにでると、レイは軽い眩暈を覚えた。
レイがオフィスに戻ると、コーヒーを片手に雑誌を読んでいた千夏が顔を上げ、
「あら?食べてくるんじゃなかったの?」と聞いた。
「ええ、でも、混んでたから」
そう言ってデスクに袋を置くと、マグカップにインスタントコーヒーの粉を放り込みウォーターサーバーに向かった。暖かいコーヒーをゆっくりと飲んでいると、やっと少し気持ちが落ち着いてきた気がした。レイは少しためらった後、相変わらずダンス雑誌を読みふけっている千夏に話しかけた。
「ねえ、立川さんなんだけど……」
「立川?彼女がどうかしたの」
千夏は雑誌から顔を上げずに答えた。
「彼女がね、カフェにいたんだけど」
レイの言葉がそこで一旦途切れたので、千夏は不思議に思って顔を上げた。
「カフェで、何かあったの?」
「何か、ってわけじゃないけど、彼女、嶋田さんといたのよ」
レイは出来るだけ平静を装って言った。
「なあんだ、そんなこと?」
「そんなこと?って……」レイが聞いた。
千夏は雑誌を閉じると
「みんな知ってるわよ、そんなこと。彼女と嶋田さんが時々一緒にお昼食べてることくらい。あなた知らなかったの?」と少し驚いた顔をした。
「えっ、そうなの?私全然知らなくて……。びっくりしちゃったわ」動揺を隠してレイが言う。
「……本当のところはどうか知らないけど、もっぱらの噂よ。付き合ってるって」
平静を保とうとしているレイの表情にわずかに動揺が現れた。千夏はそれを見逃さなかったが、敢えて気づかないフリをすると
「あんな媚びた女のどこがいいのかしらね」と毒づいた。
「……彼女は若くて可愛らしいから」
レイはそう言うと
「午後のレッスンの準備をしなきゃ。スタジオを開けてくるわ」と席を立った。
千夏は、IDカードを持って2階のスタジオへ向かうレイを横目で見ながら
「……ったく、困ったわねぇ。思ったとおりだわ」と呆れたようにつぶやいた。