1章 NewYork I -Laura-

「ローラ、おつかれさま。6時からBDSのクラスでしょ?もう上がっていいわよ。」
店の奥で商品の数をチェックしていると、同じ職場のジョディが声をかけた。
レイは週に3日、ブロードウェイ近くの、このダンスショップで働いている。ニューヨークでは皆、彼女の事を“ローラ”と呼ぶ。日本名を使っていないニューヨークで、彼女を“レイ”と呼ぶ人は誰もいない。
1年前、レイはニューヨークに戻ると、長かったダークブラウンの髪を短く切り、ブロンドに染めた。柔らかくカールしたブロンドの髪は、肩につくかつかないかの位置でふわりと揺れていた。
コロンバスアベニューから少し東へ歩いた小さなアパートに住み、バレエ教師としてブロードウェイのダンススタジオでいくつかのクラスを持っていたが、暮らしていくためには、日本語の翻訳や通訳の仕事をする事もあった。
ニューヨークには、かつて所属していたABTの知人が何人もいたが、何となく、こちらに戻った事を連絡できずにいた。
レイは店を出ると、少し何か食べておこうと近くのカフェ、『ラナ』に入った。今日は夕方6時から、ビギナークラスを教える事になっている。
「ローラ、今日は早いね」
顔馴染みになった店主のマークが、カウンターで注文を取りながら声をかけた。
「ええ、今日は6時からのクラスがあるから」
お昼頃にオープンし、深夜まで営業しているそのカフェは、かつてブロードウェイのダンサーだったマークが経営しており、こぢんまりとした店内は、いつもダンサー達でにぎわっていた。
レイはカプチーノとベーグルサンドをオーダーし、テラス席で一息つくと、空を見上げた。
『……エド、あなたは今、幸せに暮らしている?』
ふとそう思うと、胸の奥から切なさがこみ上げてきた。
カーネギーホール近くに位置するブロードウェイ・ダンス・スタジオ(BDS)は、クラシックバレエとジャズダンスを中心とした、ニューヨークでは名前の知れたダンススタジオだった。初心者から上級者までを対象としたオープンクラスで、外国人や観光客の受講生も少なくはない。特にレイが担当するクラスは、日本語が通じると言う理由で、日本人の姿がよく見られた。
アメリカに戻った今も、レイはローレン・バークスフォードという名を使わず、ローラ・バークレーと言う名を使っていた。