4章 Dancer -Patlic-

4章 Dancer

スタジオを出ると、レイは少し曇った空を見上げた。

(……舞台に戻ることができれば、私は彼を思い出さずに生きられるかもしれない。この辛い気持ちから解放されるかもしれない)

ふとそう思った。

けれど、今更ABTに戻るなど出来ない。どうすれば?いっそ、ブロードウェイのオーディションを受けてみようか。ジャズだって、それなりに踊れたはずだ。クラシックにこだわらなくても踊れさえすれば、それでいい。それで、この気持ちから解放されるなら、と。

レイはぴたりと足を止めると、踵を返した。STEP INの受付フロアには、オーディション情報が集められたスタンンドがあったはずだ、と。

「ローラ?ローラじゃないか?!おい、ローラ!」
自分を呼び止める声に驚いて振り向くと、そこにはパトリックがいた。
「ああ、やっぱり君だ!驚いたな、そんなに髪を短くしてブロンドなんて。一瞬別人かと思ったよ」
「……パトリック、どうしてNYに?」
キツネにつままれたような顔でレイが聞いた。
「それはこっちの台詞だよ。君こそどうしてNYに?仕事か?それとも休暇で?」
レイは一瞬、ためらったが
「戻ったのよ、こっちに……」と答えると、続けざまに
「パトリック、あなたこそどうしてここに?シカゴじゃなかったの?」と聞いた。
「ああ、今度ABTで踊るから……。それにしても驚いたな、いつ戻ったんだ?」
「去年の春……」
「去年、って……、1年も前じゃないか?!どうして知らせてくれなかったんだ?」
「……色々と、ね」
レイはそう言って曖昧に答えた。
そんなレイの様子に、何かを感じ取ったパトリックは
「……時間は?せっかく会ったんだ。お茶でも飲まないか?」と言った。

レイとパトリックは近くのカフェに入ると、少し奥のテーブル席についた。

「近くに住んでいるのか?」
「ええ。コロンバスサークルの近く。仕事場も近くて便利よ」
「どこのカンパニーに?」
レイはパトリックの問いに苦笑いをすると
「……どこにも所属していないわ。相変わらず教えているの。他にはダンスショップの店員と、たまに通訳」と答えた。
「そんな、勿体ない!もう舞台に立つ気はないのか?」
「……今更、難しいわ。私は無名よ。もう若くもないし」
「君の実力ならそんな事は関係ないだろう?ABTに戻るとか、そう言う選択肢はないのか?」
「ABTに?!まさか!」
レイはとんでもない、という顔をして言った。
「別に、もめ事を起こして退団したわけじゃないんだ。知らん顔してオーディションを受けたらどうだ?驚くぞ」
パトリックはそう言って笑った。
「遠慮しとくわ。私は今のままで満足よ」
そう言うレイの表情からは『諦め』が読み取れた。
「……本当に?本当にそれでいいのか?」
パトリックが聞いたが、レイはその質問には答えずに
「パトリック、ひとつだけお願いがあるんだけど……」と言った。
「何?」
「私がニューヨークにいる事、ジェイや千夏には黙っていて欲しいの。もちろん私に会った事も」
その言葉にパトリックは怪訝な顔をした。
「どうして?……何か、あったのか?」
「いいえ。彼らと何かあったわけじゃないの。ただ、しばらくは1人でいたいのよ」
「……事情を聞きたい所だけど」
そう言うとレイが、微かに表情を強ばらせた。パトリックはその表情から、話したくない何かがあったのだ、と悟った。
「わかった。何も聞かないよ」
「ありがとう」
レイが思わず安堵の表情を浮かべると、パトリックは少し心配そうにレイを見た。
「それで……、どこで教えてるんだ?STEP INか?」
「いいえ、違うわ。教えているのはBDS。STEP INはクラスを受けてきただけよ」
「STEP INか……、懐かしいね。ABTの頃よく行ったな、ナツと3人で」
「……私を覚えていた人がいたわ。ロッカールームで声を掛けられて、“ABTで踊っていたでしょ”って。……驚いたわ」
感情を抑えるようにして言うレイを見ながら、『本当は、まだ舞台で踊りたいのだ』と思った。パトリックは少し考えたあと
「今日の、これからの予定は?」と聞いた。
「いいえ、特には。今日はオフだから……。どうして?」
「今、ちょうどABTの稽古場でレッスンしてる。一緒に来ないか?君と踊りたい」
「……ABTの?」
レイは、少し硬い表情で言った。
「ああ、今度ゲストで踊るから」
「……嬉しいけど、ABTには何となく行き辛くて」
「行き辛いって、昔の仲間もまだいるんだし、別にいいんじゃないか?君を傷つけた連中も退団したし」
レイは、首を横に振った。
パトリックは仕方なさそうな顔をすると
「わかったよ。……じゃ、木曜の午後は?ウチの団がいつも使っている貸しスタジオがあるから、そこで。俺たちだけ」
「夕方の6時までなら……。7時からはBDSのクラスがあるから……」
「十分だ。じゃあ木曜のお昼にこのカフェで待ち合わせよう」
「わかったわ」
「よし!決まりだ」パトリックはそう言って、自分の膝をポンと叩いた。
「楽しみだな。久しぶりに君と踊れる」
パトリックが嬉しそうに笑うと、レイは少し肩をすくめながら小さく笑った。

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4章 Dancer

Posted by Marisa