10章 安紗美 1 -噂-

10章 安紗美

chapter10

開発部オフィスの3階は、半分が社員達のためのリラックスコーナーになっていた。ウォーターサーバーやコーヒーなどが常備されたそこは、窓際がカウンターになっており、フロアにはいくつかのテーブルが設置されていた。

総務部の2人は、外が見えるカウンターテーブルでランチを食べながら、おしゃべりに夢中になっていた。「ねえ、昨日、表参道で瀧澤さんを見かけたのよね」
26歳で、総務部では一番年上のリカが言った。
「瀧澤さんって、近くに住んでるんでしょ?」
ひとつ後輩の友理奈が答える。
「そうなんだけど、一緒にいたのが誰だと思う?」
「誰?」
「だから、誰だと思う?当ててみてよ」
「えーっ、そんなの見当もつかないわよ。瀧澤さんって謎だもん」
「びっくりするような人と一緒にいたのよね。思わず二度見しちゃったもん」
「ちょっと、誰よ。びっくりする様な人って。まさか芸能人とか?」
「まさか、そこまでは行かないわよ。いくらなんでも」
「えーっ、もったいぶらずに教えてよ」
地団太を踏みながら友理奈が聞く。リカは「ふふん」と少し得意げな顔をすると、隣の友理奈に顔を寄せ、小声で
「嶋田さん」と言った。
それを聞いた瞬間、友理奈は思わず
「えーっ!嶋田さん?!」と大きな声を出した。
周りにいた社員達が、びっくりして彼女達のほうを見た。友理奈は、あわわ、という感じで口を押さえた。
「本当に?!それって、2人が付き合ってるってこと?」
声を潜めて再び友理奈が聞いた。
「雰囲気からして、多分そうね」
「えーっ、ショック!いつの間にそんな……。相手が瀧澤さんなんて勝ち目ないじゃない」
「なによ、あなたまでマジな彼狙いだったの?」
「……それ程じゃないんだけど」
「まあ、可哀想なのは安紗美よね。とてもこんな事言えないわ。あの子って、かなり彼に入れ込んでるじゃない?」
リカが気の毒そうに言った。

「私が可哀想って、どういうことよ」

突然、背後で安紗美の声がした。
びっくりして2人が同時に首を後ろにひねると、そこにはココアを手にした安紗美が立っていた。
「ねえ、どうして?」
再度、安紗美が聞いた。
「べ、別に、なんでもないわよ」
少し焦った様子でリカが言った。
「嘘、何か私に隠してるでしょ?」
不機嫌そうな表情で安紗美が言うと、2人は顔を見合わせて、困った表情をしたが、友理奈が目配せをするとリカは仕方なさそうに
「安紗美、嶋田さんは諦めた方がいいよ」と言った。

安紗美はその言葉に目を見開き片方の眉をつり上げると、
「どういうこと?」と聞いた。
「嶋田さんは、瀧澤さんと付き合ってるのよ。だから諦めた方がいい」
「……瀧澤さんと?」
「そう。昨日、表参道で見かけたの。嶋田さんと一緒にいるの」

安紗美はしばらく黙っていたが、憮然とした表情で
「そんなこと、わからないじゃない。偶然一緒にいただけかもしれないでしょ?」と言った。
「どう見たって、恋人同士って雰囲気だったわよ」事も無げにリカが言うと、安紗美は下唇をかんで悔しそうな顔をした。そして、「私は、絶対諦めないわ!」と言うと、踵を返した。

リカと友理奈は、そんな安紗美を見てため息をついた。
「どう考えたって無理だと思うけどね。嶋田さんと瀧澤さんなんて絵に描いたようなカップルじゃないの」リカが言うと
「でも、安紗美、本気で瀧澤さんに喧嘩売りそうで怖いわ」と友理奈が心配そうに答えた。

午後のクラスが始まった2階のスタジオでは、レイが、淡いブルーのレオタードに白い巻きスカート姿で、動作の見本を示していた。

スタジオの窓越しには、通路から中を見ている安紗美の姿があったが、レイは全く気づいていない。

安紗美には、何をやっているかはよく分からないが、ただ、じっとレイの姿を眺めていた。長い手足と、しなやかで細い体。その動きはとても優雅で美しかった。

『彼女が、嶋田さんと付き合っている』

そう思うと、窓の向こうで、穏やかに微笑むレイをひっかいてやりたい衝動に駆られた。

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