14章 冬空 1 -突然の訪問者-

14章 冬空

年も明けた早々、レイの担当するクラスに初めて見かける外国人女性が混じっていた。外国人がクラスにいることは珍しいことではなかったが、中級レベルのクラスを受けるには、まだ訓練が足りない様子だった。それでも彼女は堂々としていて自分に自信を持っているようだった。

レッスンが終わり、皆がスタジオから出て行ってしまうと、レイは少しだけ新しいシューズを馴らしておこうと、それに履き替えると、軽くバーを持ってドゥミポアントとフルポアントを数回繰り返した。

レッスン用の音楽を流し、軽く流すように踊っていると誰かがスタジオの扉を開けた。そこには、先程の外国人女性が立っていた。

「忘れ物ですか?」レイが英語で聞くと、彼女は
「いいえ、あなたにお話が」と言って、スタジオの中に入ってきた。そして、レイの立つグランドピアノの横まで来ると、
「私、クリスティよ。お会いするのは初めてね」と言った。
「クリスティ……?」
にわかに信じられない表情でレイが確認するように聞いた。
「いやだわ!まるでお化けを見たような顔で見ないでいただきたいわ。わざわざあなたに会いに来てあげたのに!」
クリスティはそう言うと、気取った様子で笑った。

けれど、あまりに突然で、レイは何が起こっているのかすぐに理解できなかった。スピーカーからは、軽快で明るいピアノの音色が流れている。
やがて、ぼやけていた輪郭が次第に浮き上がってくるような感覚の中で、レイは黙ったまま音楽を止めた。スタジオはしんと静まりかえり、トゥシューズのコツンという音だけが、微かに響いた。レイは、クリスティとは視線を合わせず、硬い声で
「わざわざ日本までいらっしゃって、何の御用ですか」と聞いた。すると、クリスティは勝ち誇ったように微笑んだ後、バックから紙切れを取り出すと、レイの前に差し出した。

「これで、彼とは終わりにしてちょうだい。オークリッジ家もそれを望んでいるわ」

それは、相当の額が記された小切手で、ジョージ・オークリッジのサインがある。レイは押し黙ったまま、それをじっと見つめた。

「いい加減、身の程を分かってくれないかしら?あなたじゃダメなのよ。誰もあなたを認めないし、あなたが相手じゃ彼が恥をかくわ」
クリスティは涼しそうに言った。
「……それに私、ずっと小さいときから彼と結婚するのが夢だったのよ。あなたさえ現れなければ、彼は今頃私と結婚していたのよ。あなたは、私が彼を奪うと思っているだろうけど、違うわ。あなたが私から彼を奪ったのよ。だから、彼を返してもらうわ」
黙ってクリスティの話を聞いていたレイは、顔を上げると落ち着いた表情で
「誰を選ぶかは、私やあなたが決める事ではなくて彼が決める事だわ」と言った。
「何を言っているの?あなた、エドワードが自分を選ぶと思っているの?」
クリスティは呆れた表情で高飛車に言うと、クスリと笑った。レイは毅然とした表情で、ピアノの上に置かれた小切手を手に取った。そして、勝ち誇ったような笑みを浮かべたクリスティの視線を捉えたまま、レイはそれを両手で一息に破いた。

「何をするの?!」

クリスティが悲鳴のように叫んだ。二つに破かれた小切手が、レイの手からぱらりと床に落ちた。レイは、落ち着いた口調で

「人の心が、こんなもので簡単に動くと思っているの?お金で彼の気持ちを買えると思っているなら、それは間違っているわ」と言った。

クリスティはその言葉に、顔を赤くすると
「誰に向かってそんなことを言っているの?!どこの馬の骨とも知れないあなたが!」と言葉を荒げた。
レイはクリスティを冷ややかに一瞥すると、
「もう、スタジオを閉める時間なので、お帰りいただけますか?」と扉を開け、スタジオを出るように促した。
クリスティは、憮然とした表情で
「覚えてらっしゃい、あなたの思い通りにはさせないわ、絶対に!」と言ってスタジオを出た。そして、ちょうどスタジオの前にやってきた千夏にぶつかると、鋭い視線を千夏に向け、無言で去っていった。
(失礼な子ね!)
そう思いながら、千夏はスタジオの中にいるレイのところへ駆け寄った。
「どうしたの?何だったの彼女?」
レイは破り捨てた小切手を拾い上げながら、「クリスティ」と言った。
「えっ?」
「クリスティよ、エドの婚約者」
そう言ってレイは、ピアノの上に紙片を置いた。
「まさか……」
レイは、驚いて目を丸くしている千夏と視線を合わせると
「彼と、これで別れろ、ですって」
クスリと笑いながら、言った。千夏はピアノの上の、破かれた小切手を見た。

「……何よ、これ。……これって、エドのお父さんから?」
息を呑むようにして千夏が聞いた。

「私、かなり拒絶されているみたい。“どこの馬の骨とも知れない”ですって」
レイは、嘲るように言うと、紙屑となった小切手を片手でくしゃりと丸めた。その手が、わずかに震えている。十数年前、父の妻から通帳を渡された時の記憶が蘇った。
(どうしてみんな、私の存在を消し去ろうとするの?私は存在してはいけないの?)
心の中で、レイはそう思った。
「レイ、大丈夫……?」
千夏が心配そうにレイの顔を覗き込んだ。
「……私の存在は、誰からも祝福されないわ、存在してはいけないの。……私はきっと、彼まで不幸にしてしまう」
軋んだ声でレイが言うと、涙がぽたりとピアノの上に落ちた。
「存在しちゃいけないなんて、そんなことない!……レイ、そんなことはないわ!」
千夏は思わず、レイを思い切り抱きしめた。

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14章 冬空

Posted by Marisa