9章 Gisell II -痛み-

殆どの客が客席を立ったころ、ようやくエドも席を立った。
そして、ロビーに出て携帯電話の電源を入れると、それを見計らったように呼び出し音がなった。パトリックだった。
「やあ、どうだった?舞台は。」
「……とても、素晴らしかった。言葉では表せないほど」
「それはよかった。……エド、彼女に会いたいとは思うが、今日は諦めてくれるか?これから仲間内の打ち上げがあって、どうしても連れ出せない。明日、必ず連絡するから」
そう言われてエドは、一瞬黙したが、すぐに
「……ああ、わかった。構わないよ」と答えた。
彼女に会いたかった。同じ劇場の、この建物のどこかに彼女はいるのだ。彼女が踊るのを観ていなければ、無理矢理にだって彼女に会いに行っただろう。
けれど、出来なかった。舞台の上の彼女は以前とは違う、もう遠い世界にいるように思えた。
エドは、パトリックに言われた通り、劇場を後にした。
「ローラ、着替えるのを手伝いましょうか?」
アンはレイの楽屋を軽くノックしながら言うと、少しだけ扉を開けた。
「いいえ、大丈夫よ。ありがとう」
「そう?必要ならいつでも呼んで」
アンが扉を閉めて行ってしまうと、レイは姿見に映った、自分を見た。
鏡の中には、ウィリになったジゼルの姿が映っている。
(……かわいそうなジゼル。恋人に裏切られて死んでしまったジゼル。けれど、あなたの愛する人は、決してあなたを忘れはしないわ。あなたの魂は、永遠に彼に寄り添うことが出来る。――でも、私は……)
レイは、しばらく鏡の中の自分を、じっと見ていたが、ゆっくりと自分から視線を外すと、化粧台のスツールに戻り、髪飾りを外した。そして衣装を脱いでガウンを羽織ると、メイクを落として髪を下ろした。
舞台のために、ブロンドから元の色に戻した髪は、肩にかかるくらいにまで伸び、それは、レイに東京で暮らしていた頃を思い出させた。
「エド……」
ふとそう呟いたかと思うと、不意にレイの目から涙があふれた。
(……バカなジゼル。……いいえ、違う、バカなのは私。自分のしてしまったことを後悔して、どうすることも出来ず、思い出に閉じこもって生きている私。舞台の上で、私は何を考えていた?アルブレヒトに誰を重ねて踊っていた?私が踊っていたのはジゼルではなく、私自身じゃないの)
そう思うと、レイは笑いがこみ上げてきた。
(バカな私。舞台に立てば何もかも忘れられるなんて……。何も忘れられしないじゃないの。きっとジュリエットを踊ればロミオに彼を重ね、白鳥を踊ればジークフリードに彼を重ねてしまうのよ)
レイは思わず、小さく声を立てて笑った。
あまりにも、自分が滑稽で哀しくて、どうしようもなかった。踊っていれば、そして、時間が経てば、少しずつ心の痛みは和いでいくものと思っていたのに、それは一向に和らぐ事はなく、むしろ心の痛みは増すばかりだった。
(私は、どう生きればいいの?この痛みを抱えて、これからどう生きれば?) そう思った瞬間、レイは、心の中でぴんと張っていた最後の糸が、微かな音を立てて切れるのを聞いた気がした。