9章 Gisell II -蒼のインク-

エドは、いつもより早めに仕事を終えてオフィスを出ると、花屋に立ち寄り、頼んでおいた花束を受け取ってから劇場へ向かった。ベージュがかった優しい色のバラはレイの好きだった花だ。
劇場へ到着し、花束を受付に言付けると、エドは開演を待つ人でざわめくロビーをゆっくりと見渡した。
開演まで、まだ1時間程あったが、ロビーは多くの人で賑わっていた。エドの近くにいた女性たちが、少し興奮気味に、これから始まる舞台について話をしている。
「また彼女の踊りが見られるなんて、本当に素敵だわ」
「ええ、本当に驚いたわ!あのローラ・バークレーが踊るって聞いたときは。ABTを退団してから表舞台には出て来なかったものね」
「噂では、休養を兼ねて外国のバレエ学校で教えていたらしいわよ」
「とにかく、楽しみだわ。おとといのチケットがとれなくて諦めていたのに、今日、彼女が踊る事になって本当にラッキーだわ」
「ええ、リュシーが目当てだった人には残念だけど、私たちはラッキーよ」
そんな会話を聞きながら、エドは『彼女は決して無名のダンサーなどではなかったのだ』と思った。
楽屋では、レイが先程届けられたばかりの花束を手にしていた。衣装の調整にやってきていたアンがそれを見て
「まあ、とても素敵なバラね。ミルクティーみたいな色だわ」と言った。
「ええ、ジュリアという品種のバラよ」
レイはそういいながら、花に顔を寄せてバラの香りをかいだ。そして、花束の中に添えられたカードに目を留めると、それを取り出した。上品な質感の白いカードには、差出人の名前はなく
『あなたのジゼルを楽しみにしています』とだけ記されていた。濃いブルーのインクで書かれた、少し癖のあるその文字は、レイの心をわずかに波打たせた。彼を思い出させる筆跡だ、と。
軽い眩暈を覚えながら、レイは、カードと花を化粧台の上に置くと、自分を落ち着けるように軽く深呼吸をした。
「緊張している?」
アンがレイの様子を見て言った。
「ええ、少し。……30分前が一番緊張するのよ、私って」
レイは少し笑いながらそう答えると、スツールに腰掛けトゥシューズを履いた。
(ダメよ心を乱しちゃ。私は乗り越えるのよ) 自分に言い聞かせるように、心の中で呟くと、レイは「そろそろ行くわ。もう一度ウォームアップしなきゃ」と舞台袖に向かった。