9章 秋雨 3 -切ない香り-

9章 秋雨

9章 秋雨

店を出て帰途についたのは12時近くで、そろそろ終電という時間になってからだった。

2人とも、外苑前から歩いて10分とかからない所に住んでいたが、それぞれの住まいは、駅を挟んでちょうど反対方向にあった。

降りる駅が近づくにつれ、レイの心はだんだんと沈みはじめた。電車が駅に着く頃には、どうしようもなく切なくて、さびしい気持ちだったが、エドにそれを悟られぬように笑顔を作っていた。
(外に出たら、彼とはさようならね)
そう思うと、出口へ向かうこの通路が、永遠に続いていればいいのに、と思った。

地下鉄の出口を出ると、エドは
「マンションまで送るよ。時間も遅いし」と言った。
それはレイにとって、とても嬉しい言葉だったが、口から出たのは
「……でも、あなたの家とは反対方向だわ」という言葉だった。
「そんなの構わないよ。たいした距離じゃないし、こんな時間に女性一人の方が心配だ」
エドは「こっち?」と視線でレイの住むマンションの方向を確認すると、ゆっくりと歩き始めた。

エドは、自分の気持ちを告げるきっかけを、なかなかつかめずにいた。今日言い出さなければ、永遠に言えないのではないかと思いながらも、どう言い出せばいいのかわからなかった。ここから、彼女の住むマンションまでは、10分とかからないだろう。言い出さなければ、と思えば思うほどと心の中はだんだんと焦りで満たされていくようだった。彼は、落ち着かなければ、と思いながら、レイに気付かれぬよう軽く深呼吸をすると
「表通り以外は静かだね」と、できるだけ、ゆっくりと話しはじめた。

静かに話す彼の横顔を、レイはまるで手の届かないものを見るようにして見つめた。手を伸ばせば、触れられる距離に彼はいるのに、その距離はとても遠く感じられた。彼に触れることができたら、彼の腕に寄り添うことができたら、どんなに幸せだろう、と思った。

その時、ふと、エドがレイの方に顔を向け、目が合った。
その瞬間、夢の中から一気に現実に戻されたような気がして、レイは思わず目をそらしてうつむいた。
(……私ったら、何を考えていたの?)
そう思うと、自分が少し惨めで、滑稽な気分だった。

「レイ?」
こんな時に、名前で呼ばれるとドキリとした。
「何か、君の気に障ることでも?」
エドが心配そうに聞いた。
「いいえ、まさか、そんなこと……」
そう言って、顔を上げると、再び彼と視線が合った。まっすぐ自分に向けられた彼の瞳を見ると、胸の奥から切なさがこみ上げ、どうしようもなかった。そしてその時、自分がどんな表情をしているかが、自分でもよくわかった。

エドが、その表情にドキリとしてわずかに表情を変えると、レイにはそれが、彼が困惑しているように映った。

(……ああ、……私は、なんてバカなの!)

レイはゆっくり視線を外すと、下を向いた。彼に、自分の気持ちを悟られたと思うと、どうしていいのかわからなかった。
ただ恥ずかしくて、いたたまれなくて、その場から逃げ出したかった。

そして、やっとの思いでレイが言ったのは
「……ごめんなさい」という言葉だった。
それは、消え入りそうな声で、もう一度繰り返された。

「レイ、君が謝ることなど、何も……」
エドはそう言うと、ほんの少し躊躇った後、彼女を抱き寄せた。一瞬、レイが肩を硬くするのが分かった。

戸惑いと驚きが混じった表情で、レイはエドを見上げた。

微かに甘い香りがした。 少し混乱した頭の中で、彼の纏う香りがラルフ・ローレンの“ロマンス”だと知っているのは、親密な間柄の女だけなのだろう、と思った。

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9章 秋雨

Posted by Marisa