9章 秋雨 2 -ミュージカル-

9章 秋雨

9章 秋雨

約束の日、レイは仕事が終わると一度部屋に戻り、淡いグレーの柔らかなタートルネックのニットを着て、深いブルーのデニムを穿くと、バロックパールのロングネックレスを着け、フワフワとしたファーが柔らかなボルドーのジャケットを羽織った。
スカートを穿いても良かったが、自分の心の内を見透かされそうな気がして、敢えてデニムを選んだ。柔らかなウェーヴのかかった長い髪をおろして、黒い革製のハンチングを被ると、革製の黒いクラッチバッグを持って部屋を出た。午後4時、待ち合わせの場所に着くと、白いシャツとインディゴブルーのデニムに黒いジャケットというスタイルで嶋田がいた。

いつもより少しラフでカジュアルなヘアスタイルで、彼が着ている白いシャツはよく見ると、ボタンホールやカフス部分などのディテールに凝った、とてもお洒落なものだった。

レイは、ジェイの『彼、仕事ではかっちりしたスーツばかり着ているけど、よーく見ると裏地とかボタンとか、ディティールが凝っていて案外おしゃれなのよね』という言葉をふと思い出した。

「ごめんなさい。待ちましたか?」とレイが言うと
「いいえ、今来たばかりですよ」と嶋田が微笑んだ。
そして彼は、レイの姿を見ると
「秋らしいスタイルだね。ハンチングもよく似合っている」と言った。
レイは恥ずかしそうに「ありがとう。嶋田さんも、いつもとイメージが違って素敵だわ」と言った。

2人は劇場近くのカフェで軽く食事を済ませた後、劇場へ向かった。
舞台は、レイが期待していた以上のもので、出口に向かいながら興奮冷めやらぬ様子で
「ミュージカルって素敵ね!セリフも歌もないバレエって知らない人には理解しづらいでしょう?でも、ミュージカルはずっと身近な感じだわ。あの歌、とても美しくて感動的だったわ。劇場に通って何度も観たい気分になっちゃう」と言った。

劇場の外へ出ると、嶋田が
「さてと、これからどうしますか?近くにいいダイニングバーがあるけど」と聞いた。

嶋田に連れられて入ったダイニングバーは、アンティークな雰囲気で落ち着いた店だった。そこは外国人が多く利用する店らしく、お客の半分ほどが外国人で、店のスタッフも外国人だった。

テーブル席に案内されると、ウェイターが英語でオーダーを聞いてきた。嶋田は英語で「シャンパンをグラスで2つ、それと……、グジェールとオレンジのカプレーゼを」と言うと、レイに「それでいいかな?」と聞いた。
「ええ、いいわ」レイもつられて英語で答えた。
ウェイターがオーダーを確認して、下がると
「そういえば、僕らが英語で話すのは初めてだね」と嶋田が言った。
「そうね。いつも日本語で話していたから。なんだか不思議な気分だわ、英語で話してるのって」
レイはそう言いながらクスリと笑った。
「今まで通り日本語で話す?」
「……いいえ、いいわ。英語で話しましょう」
「じゃあ、僕のことは“エド”と。間違ってもミスター・シマダなんて呼ばないで」と笑った。
「わかったわ、私もミス・タキザワはやめて。レイ、でいいわ」

二人とも、これまで何の違和感も無く日本語で話していたが、英語で話すことでお互いの距離が近くなったような、そんな気がしていた。

オーダーしたシャンパンのグラスが運ばれてくると、二人は軽くグラスを重ねた。
「アメリカに住んでいたんだってね?ジェイが言っていたよ。君はABTのソリストだったって」
エドがそう言うと、レイの表情にわずかに狼狽の色が浮かんだ。心の中で『もう、ジェイったら!』と思いながら、彼にそれを悟られぬよう
「ええ、2年前まで。でも脚を怪我しちゃって退団したのよ」と答えた。
「怪我?」心配そうにエドが聞いた。
「今はもう大丈夫よ。思ったよりも回復が良くてびっくりしちゃったわ」
レイはそう言って笑うと、シャンパングラスを軽く持ち上げた。
「あなたも、長くアメリカにいたと聞いたけど」
「大学からずっとだから……、10年以上、かな?少しだけロンドンにいた頃もあったけどね」
「どうして、アメリカで仕事を?」
「まあ、色々とね……。あまりロンドンには戻りたくないんだ」
エドは曖昧に答えると
「生まれは、東京?」と聞いた。
エドの問いに、レイはほんの一瞬表情を硬くしたが
「ええ」と明るく答えた。
本当は東京ではなくアメリカ生まれだ、とは言えなかった。そこから自分のすべてが分かっていくような気がしたからだ。
「じゃあ、今もご両親と一緒に?」
「いいえ。両親は、もうずっと昔に亡くなっているから」
レイが、ごく普通に答えると、エドは表情を曇らせた。そして、申し訳なさそうに
「すまない、何も、知らなくて……」と言った。
「謝らなくても大丈夫よ。もうずっと昔、10年も前のことだもの」
そう言ってレイは笑った。
「ずっと、1人で?」
「ええ。でも、両親が亡くなったあと1年くらいはアメリカのジェイのところにいたわね。それからは気ままな一人暮らしよ」
「ジェイのところに?」
「小さい頃、父の仕事の都合でアメリカにいた事があって。親同士が友達で、両親が亡くなった時も、随分お世話になったわ」
「じゃあ、ご両親が亡くなってからずっとアメリカに?」
「そう。ABTのスタジオカンパニー入ったあと正団員になったから」
レイは、言葉を選びながら慎重に言った。ジェイが話してしまった以上、アメリカにいた事は隠してはおけない。
「……僕の母も、早くに亡くなっていてね。日本人だったんだけど」
エドは躊躇いがちに自分のことを話し始めた。
「その後、父が再婚した継母と相性が合わなくて。思春期のデリケートな時期だったしね」
そう言ってエドは苦笑いした。
「君も知っていると思うけど、……僕の家はずっと昔からの古い家でね、それも僕には違和感があって。とにかく家を出たくてたまらなかったよ。だからイギリスの大学じゃなくてアメリカの大学へ行ったんだ。家を出るには一番の口実だったから」
「お父様は?寂しがってらっしゃるんじゃない?」
「父……、ね」エドは困ったように笑うと
「父とは犬猿の仲だよ。だから、ロンドンの家には殆ど戻っていない」と答えた。
「……」
レイはどう反応してよいか分からず、言葉をさがした。そんなレイの様子を察したエドは
「僕は一族の中じゃ、変わり者なんだよ」と笑うと
「レイ、君のご両親のどちらかは、英国人?」と聞いた。
レイは、ドキリとしたが、できるだけ自分の動揺を悟られぬように言った。
「えっ、どうして?」
「……とても、きれいなクィーンズ・イングリッシュを話すから」
そう言われて、レイは米語アクセントで話すべきだった、と思った。けれど、今だけそうしたところで、すぐに分かってしまうことだ。意識していないと米語アクセントでは話せなかった。
レイは諦めて「ええ、母が英語のアクセントにはとても厳しくて。ご先祖が英国人らしいわ」と答えた後、どうかそれ以上のことを聞かれない事を願った。 ちょうどその時、ウェイターが空になったグラスを下げに来た。
それをきっかけに、レイはさりげなく話題を変えた。

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9章 秋雨

Posted by Marisa