16章 夢のあと4 -悔恨-

店内には、壁の時計が時間を刻むかすかな音と、時折コーヒーメーカーが発する蒸気の音がするだけだった。エドは長い間、息も出来ず呆然としていたが、やがて両手で顔を覆うと
「幸せになんて……、彼女なしで幸せになど……」と絶望的な声で呟いた。
「……あの子は、傷ついて辛い思いをするよりも、寂しいことを選んだのよ」
高揚のない声でジェイが独り言のように言った。
「……あの時、戻るべきだったんだ、僕は」
エドが少しかすれた声で言うと、ジェイはわずかに表情を変えて彼を見た。
「あの時?」
「ロンドンに発つ日、彼女は僕に言ったんだ、笑顔で“気をつけて”って。僕はボストンで会おうって、彼女を抱きしめてから部屋を出て……、けれど……」
そこまで言うと、エドは言葉を詰まらせた。
「ドアを閉める時に見えたのは、今にも泣き出しそうな表情の彼女だった……。あの時、僕は部屋に戻るべきだったんだ。そしてそのまま留まるべきだったんだ。なのに僕は……」
エドは再び顔を両手で覆った。ジェイは、下唇を噛みしめて涙をこらえるようにしてうつむいていたが、やがて顔を上げると
「あの子は……、あなたが扉を閉めた瞬間、あなたがクリスティを選んだと思ったのよ。……どうして?どうしてあの子を見捨てたの?!」と破綻したように言った。
雨が降り出して来たのか、微かに雨音が聞こえて来る。雨音に混じって上のアトリエから、時折カタンという音が聞こえた。きっとアーロンが機材を片付けているのだろう。
ジェイは、深いため息をつくとエドを見た。そして、冷ややかさの混じった声で
「……起こってしまった事を、後悔したってしょうがないわ。もう、あの子はいないのよ。そして、二度とここには戻って来ない。二度とね」と言った。
「……レイには、絶対にあなたに言うなって口止めされていたんだけど、あなたは知っておくべきだわ」と前置きをすると、ジェイはエドをしっかりと見据えた。
「あの子、流産したのよ。……あなたがロンドンへ発った日に」
エドは、すぐには何の話をしているのか理解できず、ジェイの視線を捉えたまま
「流産……?」と聞いた。
「……あなたの子が、あの子のお腹にはいたのよ。……もっとも、あの子は流産するまで自分が妊娠してるなんて気づいてすらいなかったけど」
エドは、ゆっくりとジェイから視線を外すと
「……そんな」と声を震わせた。
「流産したと知った時、あの子が何て言ったと思う?……この子は流れるべくして流れたって。自分が妊娠していることに気づいていたら、それを楯にあなたを縛り付けつけただろうって。あの子がどんな気持ちでそう言ったか分かる?」
テーブルの上で組まれたエドの両手がわずかに震えている。やがて、その上にぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。
ジェイは哀れむような表情でエドを見ると
「あの子が流産したのは誰のせいでもないわ。あなたを責めるつもりもない。……でも、私はあの子が哀れでたまらない!あなたを愛しているのに、傷ついて、身を引く選択をするしかなかったあの子が、あまりにも悲しくて……」と、声をつまらせた。
それは、初めて見るジェイの涙だった。
「きっとあの子は、これからあなたの影と生きていくのよ……。あなたと過ごした……、幸せだった思い出の中に閉じこもって……、ずっと」
それきりジェイは、黙りこんだ。
エドの心に沸き上がるのは、どうして彼女のそばを離れてしまったのかという深い後悔と、父親やクリスティに対する怒りに似た感情だった。
「……彼女は、どこへ?」
エドが聞くと、ジェイはわずかに鼻を啜り上げるようにしながら
「それは分からないわ。……私やナツにも教えてくれなかったから。落ち着いたら連絡する、としかね。あなたに関わるすべての事を、遠ざけたかったんだわ、あの子は」と言った。
そして、自分を落ち着かせるように小さく息を吐き、コーヒーをひとくち飲むと
「……すっかり冷めてしまったわね。淹れなおすわ」といってカウンターへ入っていった。