5章 Giselle I -はじまり-

5章 Giselle I

5章 Giselle-1

レッスンが終る頃、芸術監督のカーティスが稽古場のドアを開けて入ってきた。彼は稽古場の中にレイの姿を見つけると、笑顔を浮かべながら
「君がローラだね。何度か君の踊りは観た事あるよ。よろしく」と言った。

そして彼は鏡の前の椅子に腰掛けると、助手らしき女性と何かを話し始めた。

レイは、少し離れたところから心配そうな表情で彼らを眺めた。落ち着かない気分だった。周りは知らない人ばかりで、しかも歓迎されている雰囲気ではない。

しばらくすると、カーティスがレイとパトリックを呼んだ。その瞬間、ざわついていた稽古場が一瞬静まり返った。

「早速だが、踊ってもらえるかね?1幕のバリエーションから、君たちのパートだけ通してみたい」
レイがその言葉に一瞬とまどうようにしていると、パトリックは
「ええ、もちろん」と答えた。そして、何か言おうとするレイを稽古場の中央まで引っ張っていくと
「さあ、ローラ。君の踊りを見せつけてやれ。ぐだぐだ言っている奴らを黙らせるんだ」と言った。

「そんな……」

「君の踊りは最高だ。自信を持って踊れ。俺がついてる」
レイは、パトリックの目を真っすぐに見たあと、不安な表情を残しながら頷くと、目を閉じて深呼吸をした。

周りの団員たちは『いよいよだぞ』と値踏みするような表情を浮かべて、ヒソヒソと話している。

「準備はいいかね?」
カーティスが聞くと、パトリックが
「ええ、いつでもどうぞ」と答えた。

カーティスの合図で、ピアノの音が流れ始めると、それまでざわついていた稽古場がしんと静まり返った。

最初は値踏みするようにレイの踊りを見ていた彼らも、2幕のパートが終わる頃には、すっかりレイを見る視線が変わっていた。踊り終わると、彼らが一斉に拍手をしたので、レイは驚いて我に返った。そして、戸惑った笑顔で周りを見ながら軽くレベランスをした。

「あんな風に踊られちゃ、文句も言えないよ」と誰かが言った。

「すまなかったね。君の実力を試すようなことをして。彼らが納得するには、踊ってもらうのが一番だと思ったから」
カーティスが言うと、レイは息を切らせながら
「……いいえ」と苦笑いした。
「パトリックが、今度の公演で一緒に踊りたいダンサーがいると言い出したときは驚いたよ。まさか君だとはね……」
「彼はね、ABT時代の君のファンだったんだよ」
パトリックが汗をタオルでぬぐいながらやってきて言った。
「えっ?」
レイが驚いてカーティスを見ると、彼は笑いながら
「本当さ。君は、もっと踊らせたいと思うダンサーだった。オファーを出そうと思った頃、君は怪我を理由に退団してそれっきり。残念だったよ。でも、今回はやっとその願いがかなって嬉しいよ」と言った。

スケジュールの調整などを終えて、団の稽古場を出ると、パトリックとレイは近くのカフェに入った。

「まずは、一段落だな。皆も納得したし、心配したほどじゃなかっただろ?」
「ええ、死ぬほど緊張したけど。まだ胃が痛いわ」
レイがやっと緊張がほぐれたと言う風に小さく笑った。
「これからは、忙しくなるぞ。何回かはこっちにも来てもらわないといけないし」
「ええ。スケジュールは調整するわ。公演前の2週間は、全部空けるし……」
「まあ、基本的には俺がNYに行くから、教えの仕事はぎりぎりまで休まなくても大丈夫だよ。俺がいないときは、君一人でもレッスンできるようにスタジオは借りておくよ」
「ええ、わかったわ」

レイはカプチーノを飲み、ホッとしたように一息ついた。

「……これからね」

少し不安そうな表情で呟くように言ったレイに、パトリックは
「まだ不安なことがあるのか?」と聞いた。
「いいえ、そんなこと……、そんなことないわ。まだ何となく緊張が抜けきらないだけよ」
そう答えながら、レイは思ったよりも辛い舞台になるかもしれない、と思った。

何故なら、レイは恋人に裏切られ死んでしまうジゼルを、自分に重ねていたからだ。
(今の私には、冗談にならないストーリーね) そう思ったが、深くは考えない事にした。

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