5章 Giselle I -願い-

5章 Giselle I

5章 Giselle-1

パトリックが着替えを終えてロッカールームから出てくると、スタジオの扉をノックする音が聞こえた。扉を開けて入ってきたのは彼の妻、アンだった。

「やあ、アン」
「もう、レッスンは終わったの?ローラは?」
「ああ、今、着替えてるよ」
「どう?順調に進んでる?」
アンが聞くと、パトリックは少し苦笑いしながら
「まあ、これからだな……、ダメってわけじゃないんだが」と言った。
「何か心配なところでも?この間シカゴで踊った時は、そんな風には見えなかったけど」
「アン、俺には女の考えてることはよく分からない。だから、何かあったらローラの相談にのってやってくれないか?」
「別に、それは構わないけど……。彼女、何か悩んでるの?」
「色々と、な……。俺じゃどうにも出来ない」

この様子では踊りのことではなさそうね、とアンは思った。
しばらくして、レイがロッカールームから出てくると、パトリックはアンをレイに紹介した。

「ローラ、紹介するよ。妻のアンだ。バレエ団で衣装を担当してる」
「よろしく、ローラ。初対面だけど、あなたのことはよく知っているわ」
そう言ってアンは優しい笑顔をした。レイも笑顔で「はじめまして、よろしく」と答えながら、とても優しい雰囲気の人だ、と思った。
「ローラ、疲れたでしょう?パトリックと踊っていると、体力がいくらあっても足りないって皆が言ってるわ」
耳打ちするようにアンが言うと、レイは思わずクスリと笑った。

「さあ、何かおいしいものを食べに行きましょう。ローラ、もちろん一緒に来てくれるわよね?」

3人はグリニッジビレッジの小さなイタリアンレストランに入った。そこは、アンがニューヨークに来ると必ず立ち寄る店で、家庭的で落ち着いた感じの店だった。初対面のアンを前に、最初は少し緊張気味だったレイも、彼女のとても穏やかで優しい雰囲気のおかげで、すぐに打ち解けた様子になった。

レイは、パトリックとアンの馴初めを好奇心一杯の表情で聞いていたが、話が自分の事に及ぶと、できるだけ曖昧に答えるしかなかった。特に、日本での事は思い出すだけで辛かった。

レイをアパートへ送ったあと、滞在先のホテルへ向うタクシーの中で、アンがパトリックに聞いた。
「ローラは、何か辛いことを抱えているのかしら」
パトリックは、すぐにその問いには答えず、ほんの少しの間を置いてから「なぜ?」と質問を返した。

「だって、ずっと寂しげな表情をしていたわ。笑っていても、どことなく寂しそうで……。会いたくても会えない人がいるんじゃないかしら?」

「……さずがに、女は鋭いな」

パトリックは苦笑いした後、ふう、と息を吐くと
「ローラには、忘れられない男がいるのさ」と言った。
「東京で一度、その男とは会ったことがあるけど、ハリウッドスター並みの美形だったよ」
その言葉から、『女たらしのどうしようもない男』を想像してしまったたアンが
「その彼が、ローラを傷つけたって言うの?」と表情を険しくした。
「まさか!見た目に似合わず、クソがつくくらい真面目な男だよ。……ローラが、……ローラの方から彼の元を去ったのさ」

アンは驚いて目を丸くしたあと
「どうして……?ローラはその彼を愛していたんじゃなかったの?」と聞いた。

「まるで、ジゼルだよ。その男はイギリス貴族出身で、家が決めた婚約者がいたらしい。もちろん彼はローラを選んだよ。けど婚約者だって相手が自殺未遂したり、色々あって、結局ローラが黙って身を引いたのさ」

パトリックは当たり障りのない部分だけをかいつまんで話した。アンは、しばらく言葉を失ったあと、ぽつりと

「……辛かったでしょうね」と呟いた。

「ローラは、今だって、奴のことを愛している。……踊りながら、どうしても奴を思い出してしまうって。今日も辛くて踊れないって、泣くんだよ。……ったく、まいるよ」
「パトリック、そんな風に言っちゃいけないわ」
アンが咎めるように言うと、パトリックは眉間を押さえながら、ため息をついた。

「辛い気持ちを隠していれば、余計に辛いわ。だから、ローラの辛い気持ちはきちんと受け入れてあげて。でないと、本当に踊れなくなってしまうわ。あなたがフォローしてあげないと」

「……けど、俺には女の考えてることは分からんよ」

アンがパトリックの様子にため息をつきながら
「わかった、私がローラの話を聞くわ。でも、ローラが辛いって言った時、お説教しちゃダメよ」と言うと、彼は顔を上げ「ああ、分かった」と答えた。

「あなたが、いつもローラを放っておけないって言っていたけど、その理由が何となく分かった気がするわ」

その言葉にパトリックは、少し困ったように笑うと、アンの肩を抱き寄せた。 「不思議だよ。俺はローラに恋愛感情を持ったことは一度もないけど、いつも気がかりで、幸せでいて欲しいって思うんだよ」

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