5章 Giselle I -手放した恋-

レイは、何度もジゼルを踊るなかで、次第に心の奥からこみ上げる切なさを押し殺すことが出来なくなっていた。
その日、1幕のバリエーションを踊っていると、パトリックが途中で音楽を止めた。
「ローラ、どうしてそんなに寂しそうな表情をするんだ?ここはもっと、恋するジゼルの恥じらいや、幸せを表現しないと。君だって恋くらいした事あるだろう?」
レイは息を切らしながら
「……ごめんなさい。やっぱり無理よ、私には」と言うと、パトリックは呆れた表情で
「何を言っているんだ。技術的には完璧に踊っている。一体何が無理なんだ?!」と聞いた。
「ダメなの。気持ちが、どうしても……。思い出すのよ」
レイが、唇を噛み締めるようにして言った。
「思い出すって、一体何を?」
レイは息を切らしながら、バーに引っ掛けていたタオルをとると汗を拭い、自分に呆れたようにため息をついた。
「……愛する人に裏切られたジゼル。私には踊れない」
「ローラ、踊れない理由があるなら、話してくれ。君は何を抱え込んでいるんだ?」
少し心配そうにパトリックが聞くと、レイは悲しそうに笑った。
「そうね……。あなたには理由をきちんと話すべきよね」
そう言って窓の外に視線を移すと、ずっと遠くの空を見るようにしたあと
「……手放してしまった恋、よ。もう、決して戻らないわ」と言った。
そして、コツンとトゥシューズの音を小さく響かせると、バーを背にしてパトリックの方を向いた。
「恋人がいたわ……。東京にいた頃」
「エドの事か?」
レイは黙ってうなずくと
「けれど彼には婚約者がいたの」と言った。
「えっ?」
パトリックは聞き間違えたのかと、レイの顔を見た。
あの真面目を絵に描いたような彼が、彼女を裏切ったのか?と。エドとは日本で挨拶した程度だったが、あの彼がレイを傷つけるなど想像できなかった。
「彼が私を裏切ったわけじゃないわ。彼は家が一方的に決めた婚約者を、決して受け入れなかった。私を愛していると言ってくれた……。でも、私が彼の元を去ったの。……私が手を離さなければ、彼は何があっても私の手を離しはしない、そんな人だった。婚約者だという人は、エドの幼なじみで、彼が婚約を受け入れない事が原因で自殺未遂をしたわ。……彼は、彼女を見捨てる事なんて出来ない。私と彼女の間で彼は苦しむ事になってしまう。だから……だから私から手を離したの」
パトリックは、少しの間言葉を失っていたが、
「……それでアメリカに戻ったのか?」と聞いた。
「……彼はきっと私を忘れて、幸せにしているわ」
そう言ってレイは、また窓の外を見た。
「君はまだ彼の事を……。だから、踊れないと言うのか?」
パトリックが言うと、レイは嘲るように小さく笑った。
「そんなの、理由になんてならないわね。彼を思い出して辛いから、踊れない、なんて」
「君は、後悔しているのか?彼から離れた事を。だから、余計に辛いんじゃないのか?」
レイはその質問にすぐに答えることが出来ず、言葉に詰まった。
「私は、後悔など……」
視線をそらすようにしてレイが答えると、パトリックはレイの前に立ち、彼女をまっすぐ見て少し強い口調で言った。
「いや、後悔している。だから踊れないんだ。今だって、彼に会いたいと、ずっとそう思っているんじゃないのか?」
レイはパトリックの言葉に目を見開き、沈黙したが、ゆっくりと視線を窓の外に移すと、まるで心の痛みをかみ殺すように
「……パトリック、……人生は何かを後悔しながら生きて行けるほど、余計な時間は無いわ」と言った。
「言っている事と、やっている事が矛盾しているよ。なら、どうして踊れないんだ?!」
呆れたようにパトリックが言うと、レイは大きく目を見開いて一瞬黙した後
「……忘れてしまいたい気持ちを思い出してしまうのよ。こんなんじゃいけないって思っても、思い出してしまうわ!何をしていても、彼が頭から離れない……!忘れてしまいたいのに……!」と語尾を震わせた。
「忘れてしまいたいって……、君は忘れられるのか?本当に忘れたいと思っているのか?」
「……忘れなければ、ならないわ」
下唇を噛み締めながらレイが答えると、パトリックは大きくため息をついた。
「俺にはさっぱり分からんよ。どうして忘れなきゃならないんだ。彼はその婚約者の事など愛していないんだろう?日本に戻ればいいじゃないか」
「……もう、遅いわ。きっと彼は、今頃クリスティと結婚しているわ」
「それは君がそう思っているだけだろう?彼はそんなに簡単に君を諦めてしまえるのか?」
「私が、そう望んだからよ。私を忘れて幸せになって欲しいって」
「どうして……」目を丸くしながらパトリックが聞いた。
「どうして?……私がいなければ、彼は何も失わないし、誰かを傷つけまいと苦しむ必要がなかったからよ」
「何も失わないなんて、君を失っているじゃないか!……君も辛いだろうが、彼だって相当辛い思いをしていると思うね、俺は」
「……身勝手だって、そう言われてもいいわ。私ではダメなの、どうしても、ダメなの」
レイは、少し思い詰めたように首を横に振ると、窓の外を見た。
パトリックは、納得しかねるような表情をした後
「……まだ他に理由があるのか?俺は、君が何の理由もなしに身勝手になれるとは思えない」と言った。
レイはゆっくりとパトリックの方に視線を戻すと、諦めたような表情で
「パトリック……。あなたには話さなきゃならないわね……」と、小さくため息をついた。 そして、「ジェイ以外に話すのは初めてなのよ」と少しずつ自分の出生のことやエドとのことを話し始めた