4章 初夏 2 -千夏の予感-

もうひとつのジゼルの物語-東京編-,4章 初夏

Chapter4 初夏

その日、仕事が終わると、千夏はKINGSへと向かった。

「ナツ、いらっしゃい。あら?レイは?一緒に来るんじゃなかったの?」
「今日は踊りたい気分なんですってよ」

少し憮然とした表情をしながら千夏はカウンター席に座った。ジェイはビールサーバーからグラスにビールを注ぐと、彼女の前に置いた。

「何かあったの?踊りたい気分だなんて」
「さ~あ。あの子、何にも話さないから分からないわ」

千夏はそういって、グラスの半分ほどまでビールをぐいっと飲んだ。

「あー、たまに飲むビールっておいしいのよね」

満足そうな顔でグラスを置くと、はぁ~と大きくため息をついた。

「……レイって、本当に分かりやすいのよね」
「心当たりがあるわけ?」
「あるわよ、もちろん」千夏はケロリとして答えた。

レイの「踊りたい気分」と言うのは大抵「何か嫌なことや忘れたい事がある」時だ。そんな時の彼女は、2時間も3時間も、ただ踊り続ける。そんなレイを、千夏は同じバレエ団にいた頃から知っている。

「で、なんなの?まさか男じゃないでしょうね?」ジェイが心配そうな顔で聞いた。

千夏は、すこし沈黙した後、両手を小さくバンザイするような仕草をすると

「あたり。そのまさか。……多分、だけど」と言った。

ジェイは一瞬の沈黙の後、困ったように大きなため息をつくと

「……相手は誰よ」と聞いた。

「あの子がそんなこと話すわけないでしょう?」
「そりゃそうだけど……。大体の見当はつかないの?」
「……ついてるわよ、もちろん。でもジェイ、あなたの知らない人よ。うちの会社と契約してるコンサルの人だもの」
「コンサル?」
「そう。ハーバード出身の超エリート。そのうえ美形だから総務部の日本人女子達が大騒ぎ」
「で、その彼は日本人なの?」
「まさか。ハーフか、アメリカ人か……。嶋田って言うんだけど、本名はエドワード何とかだって」
「エドワード?!」

ジェイが声をひっくり返していった。その声に驚いた千夏は、持っていたグラスからビールをこぼしそうになった。

「ちょっと、急に変な声出さないでよ!」
「……そのエドワードって、やたらと日本語が堪能じゃない?」
「さあ?私は話したことないから……」
「コンサルで、美形で、ハーバード出身のエドワードなんて彼しかいないわよ。彼ってハーバードの前にMITを卒業してない?」

「……イエス」千夏は驚いた顔をして言った。

「ああ、やっぱりそうよ。エドだわ。イギリス人で、土曜によく来るんだけど、パーティーとかに顔を出したことがないから、ナツとは面識がなかったわね……」
「”嶋田”なのにイギリス人?」
「嶋田っていうのは、お母さんの姓よ。彼、お母さんが日本人だったの。イギリスの名門貴族出身よ」
「へえ……。名門貴族、ね。そんな人が日本でコンサル?」
「ちょっと変わっているのよ、彼。……それにしても、よりによってエドにねぇ」

ジェイが少し渋い顔をして呟いた。

「よりによって、って……、どうして?」

千夏が不思議そうな顔で聞くと、ジェイは

「ああ、深い意味はないのよ。……ちょっとびっくりしただけで」
と語尾を濁した。千夏は少し納得しかねるような表情をしたが
「でも、確かにラグジュアリーブランドだわね、彼」とつぶやいた。
「ラグジュアリーブランド?」
「いつだったかレイと、嶋田さんってフツーの女には手の出せないラグジュアリーブランドっぽいわねって話してた事があるのよ」

ジェイは思わずクスリと笑った。

「……で、レイはそのラグジュアリーブランドに恋してるわけ?」
「そういうこと。でも彼は総務の立川って子といい感じだって、もっぱらの噂」
「どんな子なの?」
「私に言わせれば今風の媚びた感じの女ね。ほら人気モデルのリサを、もう少し甘くして媚びさせた感じ」

眉間にしわを寄せて千夏が言った。

「つまり、あなたの一番嫌いなタイプの女ってわけね」
「うちで働いている割には英語も話せないし、とりたてて知性を感じるタイプでもないわ」
「ホントに女は女に手厳しいわねぇ」

呆れたように笑ってジェイが言った。

「何だかがっかりよ。嶋田さんがあの手の女が好みなんてね」
「噂でしょ?信憑性はあるの?」
「わからない。でも、お昼に彼と彼女がカフェにいたのをレイも見てるのよ。それが今日」
「で、踊ってる、ってわけね」

ジェイは少し困ったようにため息をつくと、エドの「気にかけている女」が、その「媚びた感じの女」だったのだろうか?と思った。どう考えたってあのクソ真面目で奥手の彼が、そんなタイプに惹かれるとは思えない。けれど、イギリス人の彼から見れば、そんな日本人女性が、とても可愛らしく見えたという事なのか。

それに比べ、レイは決して可愛らしく見えるタイプではなかった。メイクも殆どしないし、千夏と同じく、人に媚びることを嫌っていた。その上あまりオープンな性格ではなく、感情をあからさまに出す事もなかった。母親譲りのクールな顔立ちと彼女の話すクィーンズ・イングリッシュのおかげで、レイの第一印象は決して親しみやすいというイメージではなかった。

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