15章 微熱 3 -クリスティ-

15章 微熱

chapter15

次の週末、エドはアメリカに発つことになっていた。レイもそれまで取っていなかった休暇をとり、彼より1週間遅れてアメリカへ行くことを決めていた。

クリスティからの電話は、ここ数週間ぴたりと止まったままで、気がかりな事と言えば、未だに自分の体調があまり思わしくない事だった。
きっと、ストレスのせいで免疫力が落ちているせいだ、と思った。レイはバスルームから出ると、お気に入りの雲模様のローブを羽織り、鏡を見た。エドが先にアメリカに発つ前に、自分の事を話しておかなければならない。レイは軽く深呼吸をしてパウダールームを出ると、エドのいるリビングルームの扉を開けた。

「エド、話しておきたいことが……」

レイがそう言いかけた時、部屋の電話が鳴った。ソファで雑誌を読んでいたエドが顔を上げ、テーブルの上の子機をとった。
出鼻をくじかれてしまったレイは、リビングを通りぬけてキッチンでグラスに水を注ぐと、それを持ってリビングに戻った。

エドは電話を切ると、困惑した表情で

「レイ、すまない。すぐにロンドンに行かないと……」と言った。
「ロンドンに?……どうして?」
レイが不安そうに聞くと、エドは答えるのを少しためらったあと、言い辛そうに

「……クリスティが、手首を切ったって」と言った。

レイの手からグラスが滑り落ち、軽い音を立てて、ガラスの破片が床に散らばった。エドは無言のまま、雑誌を手に床にしゃがむと、注意深くガラスの破片を雑誌の上に拾い上げた。

「……嫌よ」

わずかに声を震わせて、レイが呟くように言った。その声に、エドが顔を上げた。そしてガラスの破片が乗った雑誌をテーブルの上に置くと
「まだ破片があるから、じっとしていて」と言って、キッチンに布巾を取りに行った。そして、細かい破片を確認しながら床を拭き終わると、呆然とした表情で立ち尽くすレイの肩を抱き、ソファに座らせた。

レイはエドの胸に、すがるようにして顔を寄せると
「嫌よ……、行かないで、彼女のところに行かないで」と半分涙声で言った。
エドはレイを強く抱きしめた。
「……僕を信じて」
その言葉に、レイは顔を上げて彼を見た。

「どうしても?どうしても彼女のところに行かなくちゃならないの?……嫌よ、私は嫌!」

「……彼女は死のうとしたんだ。僕のせいで。彼女を追い詰めたのは僕だ。だから……」

なだめるようにエドが言うと、レイの目から涙が溢れ出した。そして、目を見開いて絶望的な表情をすると、下唇を噛むようにしてエドをそっと押し戻してうつむいた。肩が小刻みに震えている。

レイは、か細い声で

「わかったわ……、あなたを一生後悔させることは、私だってしたくない……」と言った。

エドはレイを再び抱き寄せると

「レイ、愛している、君だけを」と言った。

翌朝、エドはロンドン行きのチケットを手配すると、手際よくスーツケースに荷物を詰めた。レイは諦めきった表情で、そんなエドの姿を見ていた。

『行かないで』

口を開けば、そんな言葉が飛び出しそうで、ただじっと押し黙っているしかなかった。彼がスーツケースを持ち玄関へ向かうと、レイは彼のコートを持って、一緒に玄関へ向かった。

(笑顔で送り出さないと)

そう思ってレイは無理矢理笑顔を作った。

「気をつけて」
レイが言うと、エドは彼女をしっかりと抱きしめた。
「じゃあ、ボストンで。空港についたら電話するんだよ、迎えに行くから」

レイが小さく頷くと、彼はもう一度レイを抱きしめてキスをした。別れがたい様子でしばらくそうしていたが、やがてエドはゆっくりとレイから離れると、玄関を出た。

そして、ドアを閉めようとした時、その手が止まった。今にも泣き出しそうな、絶望的な表情をしたレイの姿があったからだ。

エドは一瞬ためらったあと、優しく微笑むと、ゆっくりとドアを閉めた。カチャリと軽い音を立て、ぴたりと閉まった扉が、レイには、自分とエドとを永遠に隔てるもののようにすら感じた。

ドアの向こうから聞こえる彼の足音が、少しずつ遠のいてゆき、やがて消えてしまうと、レイはその場に崩れ落ちた。涙が次から次へと溢れ出て止まらなかった。

軽い眩暈を感じながらレイはリビングに戻ると、ソファに身体を沈めて目を閉じた。体の奥に鈍い痛みを感じた。

(……もう、終わらせるのよ、何もかも。終らせなきゃいけないのよ)

心の中でそう呟くと、ゆっくりと目を開き、短い間エドと暮らした部屋の中をゆっくりと見回した。

ダイニングチェアには、淡いベージュのマフラーが掛かっている。それは柔らかなカシミアで、彼が気に入って愛用している物だった。レイは、それをそっと手に取った。

頬を寄せると微かに甘い香りがした。

スポンサーリンク

15章 微熱

Posted by Marisa