1章 始まりの場所

もうひとつのジゼルの物語-東京編-,1章 始まりの場所

Chapter1 始まりの場所

デジタル・ウエーブ・インターナショナルは少しばかり変わった会社だった。ウェブ開発部門とダンススタジオ部門という変わった事業構成で、そのスタッフの殆どが外国人だ。社内では英語が飛び交い、ここが日本である事すら忘れてしまいそうな環境である。

アメリカ育ちの里中が経営するこの会社は、最初、ウェブ制作会社だったが、彼の妻がアメリカ人のバレエダンサーで、彼女が教室を開きたいと言ったのがきっかけだった。もっとも、その妻は今では離婚してアメリカへ戻ってしまったが。

青山にあるオフィスビルは3階建てで、開発事業部とスタジオ事業部の2つの建物が左右に配置され、その間は吹き抜けのエントランスになっていた。エントランスの奥は天井までのガラス張りで、ティーテーブルと椅子が3セット配置され、その向こうには緑の木々が見えていた。そこではバレエクラスを受けに来る人々が、レッスン前に談笑している姿がよく見られた。それぞれの入り口はエントランスホールにあったが、2階の渡り廊下で2つのオフィスがつながっていた。

瀧澤レイが里中に案内されてスタジオ事業部のオフィスに入ると、村瀬千夏が受付カウンターの向こうから飛び出してきた。

「レイ!よく来たわね!」

そう言うと、千夏は思い切り彼女を抱きしめた。そうして感慨深げにお互いに見つめ合った後、顔を見合わせて笑った。

「何年ぶり?変わってないわね。脚は?もう大丈夫?」
「ええ、すっかり」
「よかった。また一緒に仕事ができて嬉しいわ」

帰国子女の千夏は、かつてアメリカのバレエ団でレイと同期であり、レイにとっては唯一の親しい友人でもあった。

「えーと、それじゃ、村瀬さんあとはよろしくね」

存在を忘れられていた里中はそう言うと、スタジオのガラス戸を押し開け開発事業部のオフィスに戻って行った。

スタジオ事業部では、上級者から初心者までのバレエクラスが開講されており、その講師の多くも外国人ダンサーだ。1階部分に受付とオフィス、講師用の小スタジオがあり、2階がメインのスタジオとロッカールーム、そして3階がサブスタジオとバックヤードになっていた。

千夏は、洒落たバレリーナの写真と花が飾られた受付カウンターの向こうにレイを案内すると、真新しいラップトップパソコンと文具が置かれた白いデスクを指し

「ここがあなたのデスク。パソコンはネットにつながっているし、必要なものはインストール済み」と言った。

オフィス内のインテリアは、いかにも事務所というものではなく、デザイナー家具を思わせる洒落たものばかりだった。レイのデスクの椅子はきれいなオレンジ色をしていた。随所に観葉植物が配置され、それはとても気持ちのいい空間だった。

「今日はまだ来ていないんだけど、あと1人スタッフがいるのよ。事務担当のエリカ。週に3日来て細かい事務作業をやってくれるの。他は曜日ごとに来る講師の先生が2人とバレエピアニスト、ゲストで来る先生方ね。みんな外国人よ」
「日本人はいないの?」
「あっちの開発部も同じような感じよ。見学しなかった?半分以上はアメリカ人やらインド人やら。日本人ばかりなのは総務部くらいかしら」
「あいにく、あっちはミーティング中だったから、まだ見てないのよ」
「あ、ロッカールームはこっちよ」

千夏はレイを事務所の奥にあるロッカールームに案内した。そこはロッカールームと言うより、楽屋のようで、スタッフの人数分のロッカーと化粧台、そして奥にはシャワールームもあった。

「ちゃんとシャワールームもあるのね。こんなに充実しているとは思わなかった。まるでバレエカンパニーね」
「まあ、半分は社長の趣味ね。私達はありがたいけど」千夏は少し苦笑いしながら言った。

ゲストで来る外国人講師用のロッカールームはまた別になっていて、そこにも化粧台とシャワールームが完備されていた。レイが荷物と上着をロッカーに入れ、デスクに戻ると

「さて、と。じゃ、仕事の内容を大まかに説明するわね」と言いながら千夏がパソコンの電源を入れた。
「担当してもらうのは、当面は大人の入門クラスと初級クラス。楽しいわよ、大人の初心者を教えるのって。それぞれのクラスレベルの概要はこっちのドキュメント。しばらくはアシスタントでレッスンに入ってもらうから、それで大体わかると思うわ」
「オーケイ」
「スケジュールはここ。事務所内で共有しているファイルだから常にいつも最新版よ」
千夏がネットワーク上のファイルを開いて言った。
「休日の話も聞いてると思うけど、ここは土日もレッスンがあるから、勤務時間や休みはレッスンスケジュールも含めて、月初めに翌月のシフトを決めるのよ。とりあえず今月のあなたのスケジュールは、こっちで決めさせてもらったわ」

スケジュール表を見ると、殆どは金曜と土曜、日曜と月曜の休日になっている。
「今日はとりあえず……、もうすぐ午前のクラスの受付時間だからお願いできる?私はスタジオの準備があるから。この名簿に名前を書いてもらってチケットのチェックをするだけよ。ビジターで受ける人は一回分のレッスン料を納めてもらって」と言って受付用のドキュメントをレイに差し出した。

「わかったわ。午前は……、上級クラス、ね」
ラップトップの画面を見ながらレイが言った。
「来るのは殆どプロかセミプロばっかりよ」
レイが名簿用の紙を持って受付カウンターへ向かおうとすると、千夏が思い出したように言った。
「あ、そうだ。私たちも仕事に支障のない範囲でレッスンを受けてもいいのよ。もちろん受けるでしょ?あとでレッスンのローテション決めましょ」

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